金. 8月 21st, 2026

この2枚の写真は1998年、高校2年のときに学童保育所が移転することが決まりプレハブ小屋が解体される直前、記憶保全のために撮ったもの。

※撮影機材:FUJI トラベルミニ WIDE-P (28mm F3.5)

<名古屋市の学童保育所とは>

1988年~1990年、私が小学1年~3年のときに通っていたのが、小学校の終業後に行く学童保育所でした。現在はトワイライトスクールが小学校に併設されていますが当時はそのような仕組みがなく、両親が共働きの家庭であったため近所の学童保育所に行くしか選択肢がなかったのです。

<独特な学童教育>

当時の学童保育所は指導員により大きく異なりますが、独特な集団主義の教育が行われていました。小学生にして児童の中からで班長という役職を設けており、学童内では小学校以上に皆が同じ集団行動を行うことが強調されました。ただし集団主義といっても点呼をとる等の軍事教練のような仕組みではなく、皆が同じ「遊び」を行うことや、小学生(低学年でも)、班長を頂点とする学年違いによる先輩後輩関係が厳格で同調圧力も強い空間であり、私は当時そういった学童教育そのものが合わず孤立していました。体育が苦手で特に球技の面白さが全く理解できないという性格であるのに、あらかじめ確定しているキックベースという「遊び」がありました。児童が全員等しく順番にボールをキックできるように児童が列を作っていました。私は自分の順番が回って来ないよう列の最後尾にいました。そして他の児童を先に行かせ常に列の最後尾に回ることで、永遠にキックしたくないという強い意思を示しましたが、皆がやっているのになぜ野澤だけがキックしないのかと強制的にキックさせられ、胃が痛くなるような心理的苦痛を覚えました。本来「遊び」とは自発的で楽しいものであるはずです。嫌なのに無理やり強要された時点で私にとってそれはもはや決して「楽しい遊び」ではなく「強烈な苦痛」でしかない。とにかく時計が速く回って欲しい、一刻も早く家に帰りたいと祈るような気持ちの日々であり学童内での友人は一人もできませんでした。

<白黒ブチのネコ、「殿」>

学童では一匹のネコが飼われていました。名前は「殿(との)」という白黒ブチの♂ネコでした。学童のプレハブ内、西側にある外窓の手前が殿のいつもの定位置で、学童へ着くとすぐ殿のところへ行き殿が短いしっぽを少し動かすその姿に癒されていました。この殿がいたからこそ、3年間我慢できたようなものです。

<電化製品が救えない悔しさ>

当時は粗大ごみの集積所が学童の目の前にあり、ごみの日に学童へ行くと目の前で捨てられている電化製品がパッカー車へ飲まれていく訳です。目当ての欲しい電化製品を拾いたくても指導員や他の児童がそれを許さず拾えないことが強烈に不満でもどかしく、私は憤怒しました。そして1991年、小学4年に上がるとき、親にもう絶対辞めたいと強く主張して学童保育所を退所したのです。

<ファイヤートーチ>

当時の学童保育所では年に一度、岐阜へキャンプに行く催しがありました。そしてその目玉行事がファイヤートーチだったのです。灯油を使い点火したものを振り回す性質上、やけど等の危険を伴うため小学校高学年になった児童達に限定されていました。事故を起こさぬよう安全にファイヤートーチを実現させるため徹底訓練が行われました。学童の児童達を集団として昇華させる極めて重要な行事であったと言えます。なお、私は低学年で辞めたため自らファイヤートーチを行った経験はありません。また、現在では安全性の観点からファイヤートーチは一切行われておりません。

1992年、ファイヤートーチの写真。私が写真を撮りはじめて初のバルブ露光でした。

※撮影機材:MINOLTA X-7 + COSINA 35-200mm F3.5-5.6

1992年、ファイヤートーチの動画。小学5年の私が撮ったものなので撮り方が下手です。

※撮影機材:SONY CCD-TR205

<(後日談)学童の集団主義教育の起源は何か>

最近になり、原武史さんの著書である「滝山コミューン1974」を読了しました。原氏が小学校高学年時に受けた異様な集団主義教育の体験談を読むことで、かつて私が受けた学童教育を回想するに至りました。私の場合は原氏の受けた教育のような過激さはないものの、ある程度の近似性はあると考えられます。

<(後日談)全生研の学級集団づくり入門>

原氏の著書で知った、全生研著「学級集団づくり入門」の1969年版を古書にて入手しました。昭和40年代から左派系の一部教育者が推進していた集団主義教育の基本マニュアル的な存在です。これを読んでみると私が1988年から3年間通った学童保育所は、おそらくこの全生研方式そのものではなくとも過去の全生研の残滓が基調にあった指導員が主導権を握っていた可能性が高いと推測できます。

<なぜ苦痛に感じられたのか>

私が当時、学童保育所という空間に於いて激しい違和感と吐き気を催すほど苦痛に感じられたその根源は何なのかと考えていくと、思い起こせば保育園時代(下記の記事参照)より周りから浮いていて同調圧力に対しての違和感があり、元々集団主義には向いていない性格だったのです。

1966→2010 公務員振甫住宅

<中学校>

学童はともかく、通っていた公立小学校に関しては集団主義の度合いはごく普通程度で、進学した公立中学も同じくごく普通程度でした。

1994年(中学1年)は、私がビデオ機器に対する限定的興味(収集欲)が増幅された時期でした(下記の記事参照)。当初は壊れているビデオ機器が動くようになるだけで満足していましたが、ビデオ機器を記憶装置として捉える傾向が高まり、次第にテレビ放送(特にニュース番組)に関心が向き、自分で収集して直した複数台のビデオデッキをフル稼働させ主要キー局の18時台ニュースを同時録画することで報道内容の比較をするようになりました。

1990’s VTR収集・修理メモ

1994年(中学1年時)は北朝鮮の金日成氏死去時における朝鮮中央放送発の衝撃的な集団的号泣シーンが流れ、なぜあそこまで集団で泣けるのだろうと非常に驚いたのです。

(後日談)2010年代以降、この時の集団的号泣は集団主義というよりは韓国朝鮮文化圏固有の礼儀作法に根付いた感情発露の集団事象であるという認識に至るのですが、割愛します。

中学時代に通っていた個人塾には、私にとって初めての外国人同級生(韓国人)との出会いがありました(下記の記事参照)。

1990’s〜2010’s 私と韓国

1995年(中学2年時)は阪神大震災そしてオウム真理教の年でありました(下記の記事参照)。

混沌の1995年

特に1995年は終戦から50年という節目の年であり、日本の過去を振り返る報道特集番組が非常に多い年でした。私は戦後50年間の特集番組を集中的に録画・鑑賞しているうちに、特に昭和40年代の学生運動(下記の記事参照)と連合赤軍事件に関心がありました。なぜ当時の学生は大学に立て籠ったのか、なぜ連合赤軍は愚かな殺し合いに至ったのか、ただ漠然とした興味でしたが気になっていたのです。

1970’s 内ゲバ

そして同年には「団地族」という、高度成長期の団地に関する特集番組(下記の記事参照)を観たことで、現在に至るまでの団地(公営系と公団公社系)に対する興味や執着心の原点が形成されました。

<高校受験>

小中と地元公立校でしたから高校受験は私にとって初めての受験でした。趣味中心の中学生活にあって成績はイマイチでした。私はできれば公立高校に進学したいと考えておりましたが、千種区内及びその近隣にある公立高校は進学校が多いことから当時の私の学力では合格は非常に困難でした。市郊外エリアの公立高校であれば私の学力でも合格できる可能性があったため、複数のパターンを想定して自分の学力相応の受かりそうな公立高校2校(2校とも市郊外)を選び(※当時の愛知県公立高校では第1志望校・第2志望校の2校受けられる仕組み・複合選抜制度)、私立高校も3校(近隣・市内遠方・市郊外)の公立私立計5校を受験したのです。

結果は公立第2志望校(市郊外)のみ合格、私立第3志望校(市郊外)のみ合格であったのです。両校とも当時は通学に片道1時間オーバーであり、元々公立志望でしたから消極的選択として公立にしたのです。しかしそこは、いわくつき公立高校であることは実は事前にある程度わかっていたのです。

<両親が大反対する中での高校進学>

進学することに決めた公立高校は、いわゆる管理教育が行われていることで有名でした。私は学童時代の集団主義が大嫌いであったし、そのような高校へ積極的に行きたいとは思っていませんでした。両親は私が集団主義に全く合わない性格なのはよくわかっているため猛烈に反対しました。私立第3志望校にした方がいい、あまり行きたくなくても管理教育の高校よりはずっとマシだろうと個人塾の先生と一緒になって強く説得されました。それでも私は頑なにそれを拒否して、いわくつき公立高校に決めたのです。後年になり理由を振り返ってみると、単に自分の学力相応で受かりそうな公立であった以外、私の中では複数の動機が交錯していたのです。

まずは自信過剰。たとえいわくつきな管理教育であっても、確固たる自分がそこにいれば流されることはないし「ミイラ取りがミイラになる」ことは絶対にない。そして内部観察的な視点で管理教育の独自メカニズムが間近で見れるという浅はかな野次馬根性。さらに中学時代から興味があった北朝鮮の独特な雰囲気や昔の極左(学生運動や連合赤軍)の極端な性向と、対比する対象としての管理教育を自分の目と耳で体感したいという左右両陣営への傍観者的態度。これらが複合的に作用して受験に至り、消極的選択だったしても周りの大反対を突っぱねて自分の意思で入学することに決めたのです。しかし後から思えばこれは無謀でした。

<高校の管理教育の実際>

1997年に緊張しながら入学してみると、事前にわかっていたこととはいえ、やはり管理教育の伝統が色濃く残るいわくつき公立高校であるのは確かでした。ここでは点呼や整列、細かな校則等が重視され、右派系の集団主義教育であったのは間違いないと言えます。しかしながら当時も独自に調べましたが管理教育自体は昭和50年代にピークがあり、私が通った時期はフェードアウトしつつあったのです。それでも入学後の新入生オリエンテーションの軍事教練さながらの集団行動訓練や教員から発せられる罵声がランダムに飛び交う光景には驚かされました。ただし教員皆が常に怒鳴るはずもなく尊敬できる教職員が何人もできました。私は部活にやりがいを感じており友人もいて自分の居場所がしっかりあり、楽しかった思い出がたくさんあります。これは入学前の冷めた態度とは大きな変化です。

1998年4月、新入生歓迎会で先輩達が登壇する様子を敢えてスローシャッターにて撮ったもの。

※撮影機材:Nikon FE+COSINA 19-35mm F3.5-4.5

<左派系と右派系どちらの集団主義がマシか>

左派系の同調圧力的集団主義が基調の学童保育所と右派系の管理教育的集団主義が基調の公立高校、両方とも私とは性格的にも思想的にも合いませんでした。しかしどちらがマシか、どちらか選べと聞かれたらば、迷わず高校時代と断言できます。学童時代と比べればそれほど苦しい空間ではなかったのです。

<管理教育的な教育指導は定型事象化し無効化される>

学童保育所では同調圧力からの逃げ道が全くなく完全に塞がれてしまっていたことで強い苦痛と怨念の記憶だけが36年経過した今もなお持続的に残り続けるのに対し、管理教育的な高校で例えば教員が怒る(罵声含む)行為は、本来は教育的指導効果を目的とするものです。しかし実際のところでは生徒である私の側からすると、教員が怒る行為の頻度が多すぎることによって、その教員が怒るという行為自体がいつもの定型事象と化し、徐々に慣れてしまい何も感じなくなるのです。つまり教育的指導効果は逆に無効化されます。管理教育は端から見ると厳しくて大変そうな空間に見えても意外と楽な空間であったのです。少なくとも私にとってはそうでした。

<謝らせる行為のイベント化と人の「内面」に及ぼす影響>

高校では教員が生徒(教室単位含む)に対し自己反省させ、謝らせるように仕向ける教育指導が多々ありました。ただ実際には反省している人(もしくは集団)の「表情」や「態度」が主な判定要素であって人の「内面」は無関係なのです。このような管理教育の「自己反省の上、謝らせる」上っ面だけのイベント化された空間と、学童の集団主義、そう、まるで人の「内面」をもコントロールするに近い同調圧力がある空間、両者を対比させると明らかに異なりました。

<謝らせる行為のイベント化を無効化する実験>

高校3年のある時、私は保健の授業で提出しなければならない手帳を家に忘れ、しかも次の授業でも忘れてきたことで「お前はもう保健の授業に出るな、教室から出ていけ」と言われ、指示通り出ていき廊下で座っていました。保健の授業担当が反りの合わない教員であったこともあって、「自己反省せず、謝らない」実験を行い無効化できるか試すことにしました。その教員から再三に渡り怒られても無視したり荒唐無稽な言い訳を言う、面前で思い切り舌打ちする等の挑発行為をすることで学年主任まで登場し「卒業できないぞ」などと言われましたがこれも完全無視して平行線でした。私としては、教員の側が生徒に対し授業に出るなと言ったのであり、必ず単位は出る(出席扱いになる)という確信の元、数ヶ月に及ぶ謝らない実験は続き、保健の授業といえば教室から締め出された野澤が廊下にいる、という状況を生みました。狙いどおり保健の単位は出ましたが、私は頑なに手帳を提出せず、教員側も意地があるので対立は続き、他の教員がこの事態をみかねて私を車で千種区の自宅まで送迎してくれることで私も折れて手帳は提出に至っています。実験はほぼ成功でした。しかしながら元々の事の発端は、提出すべき手帳を出さなかった私にありますから子供じみた行為とも言えます。わざわざ車を出してまでして仲裁してくれた教員には感謝しています。

<実は生徒に「甘い」管理教育>

管理教育の世間のイメージといえば「生徒に厳しい」であるのが一般的です。しかし私の実体験(1990年代後半期)では、むしろ逆に「生徒に甘い」実態が浮かび上がります。私は中学時代に続き、高校時代も趣味ばかりに熱中しており、成績が徐々に悪くなってしまい赤点になることも多々起きました。印象的なのは高校3年時に家庭科のテストで赤点を取ったとき、追試(再考査という呼称)が行われるのですが、何とその追試もまた赤点だったのです。普通ならもう留年確定な一大危機であるはず。ところがさらに再追試が行われるのです。しかも試験問題が追試の度にどんどん簡単になるのが最大の特徴で、具体的には「ドコサヘキサエン酸」が正解の選択式設問で、「ドコニイッタノカエン酸」との2選択肢のみ。これなら絶対正解する訳です。落ちこぼれても卒業できる仕組みであり、私はむしろこの何回も行われる追試により卒業できたようなものです。普通の高校(特に進学校)なら留年だったことでしょう。

<卒業式を欠席したことによる「留年する夢」>

高校の卒業式は出席したかったのですが、私はやむを得ず欠席しました。これは卒業式当日が東京の某大学の受験日と重なっていたことから欠席したという単純な理由によるもので、しかもその某大学は進学先でもあったため何も後悔する要素はないように思えます。

ところが、卒業後、四半世紀に渡り「高校を卒業できず留年してしまう夢」を見るようになります。もちろん頻繁にそのような夢を見る訳ではなく、年に1回~3回ぐらいでしょうか、年を重ねるごとに徐々に低頻度にはなっていき近年では滅多に夢には出てきません。この夢の具体的な内容は、高校では学年ごとに学校指定の色が違い、私の学年は「青」でした。そして一つ下の学年が「緑」でした。夢の中で自分自身の足元を見ると「緑」のスリッパを履いていたり、部活の1年後輩と同じクラスになっている。「ああ、自分は留年してしまったんだ」。そして目が覚めた直後に「いや、卒業はしたのだ。確かに卒業した」と我に返る。これが定型パターンです。一方で学童で拒絶反応に近いほど嫌だったキックベースは案外夢には一切出てこないという特徴もあります。

私なりにフロイトもどきの夢診断をしてみると、高校の卒業式欠席という行為が例え合理的理由であったとしても、事実として自分自身の成績が悪かったことも相まって精神的な充足度の欠乏に繋がっているのではないかと思われます。今でも欠席したことに対する後悔の念を漠然と抱いていることが反映されている訳です。学童のキックベースは小学校低学年という時期の違いによる記憶の風化が大きく作用している可能性が高いのと、小学校高学年では学童を辞めたことで一転してフリーダムな環境になり友人に恵まれたことも影響していると感じます。私の場合の子供時代から現在に至るまでの夢の傾向として、夢に出てくる風景やテーマは概ねマイナス3年~マイナス15年時点の出来事がベースであることが最も多く、現在を起点とすると高校はマイナス26年時点、学童はマイナス36年時点であることからも、発現頻度の低下は必然性があります。

<「ストレンジラブ」的で複雑な母校愛>

私は果たして「ミイラ取りがミイラに」なってしまったのでしょうか、それとも違うのでしょうか。私は中学時代どちらかと言えば左派系であり、右派系を低く位置付けていた節がありました。当時は少数派であった右派系の文化に高校1年時より直に接する機会が生まれたのは、むしろ利点であったと言えるでしょう。左派系であれ右派系であれ皆同じ等しい人間であり各々が個を有しています。そして左右に関係なく自分と合う人は合うし、合わない人は合わないことに気付かされました。

私の母校に対するスタンスは、ミイラ取りがミイラになったか否かでは説明がつきません。強いて例えるとすれば、まるで古い米国映画・ドクターストレンジラブのような心境です。この映画の邦題は、

「博士の異常な愛情 – 私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」

これと似ている感覚がふわりとあり、かつて管理教育の危険性を目と耳で直接捉え問題意識は持ちつつも、その一方で心のどこかで今や失われてしまった管理教育を偏愛している自分がいる気がするのです。

「野澤の異常な愛情 – 私は如何にして批判するのを止めて管理教育を愛するようになったか」

By 野澤高士

1981年、名古屋市生まれ。

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