<名古屋市の学童保育所とは>
1989年~1991年、私が小学1年~3年のときに通っていたのが、小学校の終業後に行く学童保育所でした。現在はトワイライトスクールが小学校に併設されていますが当時はそのような仕組みがなく、両親が共働きの家庭であったため近所の学童保育所に行くしか選択肢がなかったのです。
<独特な学童教育>
当時の学童保育所は指導員により大きく異なりますが、独特な集団主義の教育が行われていました。小学生にして児童の中からで班長という役職を設けており、学童内では小学校以上に皆が同じ集団行動を行うことが強調されました。ただし集団主義といっても点呼をとる等の軍事教練のような仕組みではなく、皆が同じ事前決定された遊びを行うことや、小学生(低学年でも)、班長を頂点とする学年違いによる先輩後輩関係が厳格で同調圧力も強い空間であり、私は当時そういった学童教育そのものが合わず孤立していました。体育が苦手(特に球技の面白さが全く理解できない)という性格であるのに、あらかじめ確定している「遊び」とされるキックベースで「遊ぶ」ことを強要され、胃が痛くなるような苦痛を覚えたりしました。時計が速く回って欲しい、早く家に帰りたいと祈るような気持ちの日々であり学童内での友人は一人もできませんでした。
<白黒ブチのネコ、「殿」>
学童では一匹のネコが飼われていました。名前は「殿(との)」という白黒ブチの♂ネコでした。学童のプレハブ内、西側にある外窓の手前が殿のいつもの定位置で、学童へ着くとすぐ殿のところへ行き殿が短いしっぽを少し動かすその姿に癒されていました。この殿がいたからこそ、3年間我慢できたようなものです。
<電化製品が救えない悔しさ>
当時は粗大ごみの集積所が学童の目の前にあり、ごみの日に学童へ行くと目の前で捨てられている電化製品がパッカー車へ飲まれていく訳です。目当ての欲しい電化製品を拾いたくても指導員や他の児童がそれを許さず拾えないことが強烈に不満でもどかしく、私は憤怒しました。そして1992年、小学4年に上がるとき、親にもう絶対辞めたいと強く主張して学童保育所を退所したのです。
<ファイヤートーチ>
当時の学童保育所では年に一度、岐阜へキャンプに行く催しがありました。そしてその目玉行事がファイヤートーチだったのです。灯油を使い点火したものを振り回す性質上、やけど等の危険を伴うため小学校高学年になった児童達に限定されていました。事故を起こさぬよう安全にファイヤートーチを実現させるため徹底訓練が行われました。学童の児童達を集団として昇華させる極めて重要な行事であったと言えます。なお、私は低学年で辞めたため自らファイヤートーチを行った経験はありません。また、現在では安全性の観点からファイヤートーチは一切行われておりません。

1992年、ファイヤートーチの写真。私が写真を撮りはじめて初のバルブ露光でした。
※撮影機材:MINOLTA X-7 + COSINA 35-200mm F3.5-5.6
1992年、ファイヤートーチの動画。小学4年の私が撮ったものなので撮り方が下手です。
※撮影機材:SONY CCD-TR205

<学童の集団主義教育の起源は何か>
最近になり、原武史さんの著書である「滝山コミューン1974」を読了しました。原氏が小学校高学年時に受けた異様な集団主義教育の体験談を読むことで、かつて私が受けた学童教育を回想するに至りました。私の場合は原氏の受けた教育のような過激さはないものの、ある程度の近似性はあると考えられます。

<全生研の学級集団づくり入門>
原氏の著書で知った、全生研著「学級集団づくり入門」の1969年版を古書にて入手しました。昭和40年代から左派系の一部教育者が推進していた集団主義教育の基本マニュアル的な存在です。これを読んでみると私が1989年から3年間通った学童保育所は、おそらくこの全生研方式そのものではなくとも過去の全生研の残滓が基調にあった指導員が主導権を握っていた可能性が高いと推測できます。
<なぜ苦痛に感じられたのか>
私が当時、学童保育所という空間に於いて激しい違和感と吐き気を催すほど苦痛に感じられたその根源は何なのかと考えていくと、思い起こせば保育園時代(下記の記事参照)より周りから浮いていて同調圧力に対しての拒絶反応があり、元々集団主義には向いていない性格だったのです。
1966→2010 公務員振甫住宅
<高校も集団主義>
私が1997年に進学した高校(下記の記事参照)は、いわゆる管理教育の伝統が色濃く残る郊外の公立高校でした。ここでは点呼や整列、細かな校則等が重視され、右派系の集団主義教育であったのは間違いないと言えますが、管理教育自体は昭和50年代がピークであり、私が通った時期はフェードアウトしつつありました。それでも入学後の新入生オリエンテーションの軍事教練さながらの集団行動訓練や教員から発せられる罵声がランダムに飛び交う光景には驚かされました。もちろん教員皆が常に怒鳴るはずもなく尊敬していた教職員も何人もいました。私は部活にやりがいを感じており友人もいて自分の居場所がしっかりあり、楽しかった思い出がたくさんあります。

1998年4月、新入生歓迎会で先輩達が登壇する様子を敢えてスローシャッターにて撮ったもの。
※撮影機材:Nikon FE+COSINA 19-35mm F3.5-4.5
<電化製品が救える喜び>
1990年代後半期の名古屋市では粗大ごみは集積所方式から戸別回収方式に切り替わっていた時代にあり、その一方で入学した高校の立地する自治体では粗大ごみが何とまだ集積所方式であったのです。つまり電化製品が拾い放題であり、強い感動を覚えました(在学中にこの自治体も戸別回収方式に切り替わりました)。さらに、同級生で一人、頻繁に大須へ通い粗大ごみの電化製品から真空管を抜き出しているという同志がいたのです。クラスが違い興味対象ジャンルの違いもあって深い交流は生まれませんでしたが、小学校から中学校まではそのような粗大ごみ同志はいなかったので嬉しくなりました。
1998年 高校通学の記録
<左派系と右派系どちらの集団主義がマシか>
左派系の集団主義が基調の学童保育所と右派系の集団主義が基調の公立高校、両方とも私とは性格的にも思想的にも合いませんでした。しかしどちらがマシか、どちらか選べと聞かれたらば、迷わず高校時代と断言できます。学童時代と比べればそれほど苦しい空間ではなかったのです。
管理教育的な高校で教員が怒る(罵声含む)行為は、本来は教育的指導目的であるはずです。しかし実際のところでは生徒である私の側からすると、教員が怒る行為の頻度が多すぎることによって、その教員が怒るという行為自体がいつもの定型事象と化し、徐々に慣れてしまい何も感じなくなるのです。つまり教育的指導目的は逆に無効化されます。管理教育は端から見ると厳しくて大変そうな空間に見えても意外と楽な空間であったのです。少なくとも私にとってはそうでした。それに対し学童保育所では、同調圧力からの逃げ道が全くなく完全に塞がれてしまっていたことで強い苦痛と怨念の記憶だけが35年経過した今もなお持続的に残り続けるのです。