木. 12月 5th, 2024

ごみ漁りといえば、ホームレスの方々による空き缶拾いが代表的ですが、本稿では不燃ごみ・粗大ごみを漁る人々について昭和末期〜2000年代なかばの過去のレポートとなります。現代の状況ではありません。

〈昭和末期〜平成初期の粗大ごみ〉

バブルの頃、3ヶ月に1回あった粗大ごみ回収の日。当時は地区ごとに粗大ごみ集積所が指定され、冷蔵庫や洗濯機、ブラウン管テレビも含め全て無料回収でした。私が小学生のとき通った学童保育所の前が集積所でしたが、まだ使える電化製品・おもちゃ・家具・衣装ケース入りの衣服などが山のように積まれ、捨てる人もいれば拾う人もいました。おおらかな時代でごみ漁り行為に対して誰も何も言いませんでした。ごみ漁りに集う人々は毎回必ず現れるごみ漁り常連の近隣住民のほか、遠隔地から巡回しているプロの方々が印象的でした。

〈ごみ漁りのプロ〉

粗大ごみ漁りのプロは数人のグループで構成され、車でごみ集積所へ乗り付け手際よくごみを漁り、収穫物を車へどんどん積んでいきます。他のごみ漁りのライバルに対しては恫喝してでも自分達の収穫を優先するのです。日々ゆとりのない生活のためなのか彼らのその表情たるや常に厳しく怖いものでした。当時小学生で物見遊山の私に対し、プロの方々に強く怒鳴られて萎縮した記憶があります。

〈粗大ごみ有料化・個別回収へ〉

平成以降、粗大ごみ無料回収は終焉を迎えます。粗大ごみを捨てる場合、自治体へ申し込み料金を支払った上で各戸の前にごみを捨てる方式へと変わりました。昭和の時代のような自由なごみ漁りは困難になっていったのです。

〈金属ごみ漁り〉

粗大ごみを漁る行為が難しくなると、残すところは不燃ごみ漁りになる訳です。40リットルのビニール袋に入る範囲に限定されますが、貴金属などに狙いを定め、不燃ごみ漁りを生業とする人々が現れるのです。

金属価格の高騰に伴い、不燃ごみの中にある電化製品の銅線部分を切り取って拾い集めるという、銅線専門の方々が登場することになります。彼らはひたすら自転車で集積所を回り銅線を集め、それを換金します。これは自己完結型が多いと思われます。

〈ごみ漁り歴40年の方との出会い〉

私が2000年代なかばに、ごみ漁り一筋40年という経歴の当時60歳男性の方から聞きとった話が印象に残りました。彼は自身が単独で不燃ごみの中にある貴金属を自転車で回り拾い集めるというスタイルでした。ごみ漁りを警察へ通報されたり、時には署へ連行されるのはもう慣れっこのようでした。

〈不燃ごみ漁りの「親方」〉

彼が強調したのは、軽トラで不燃ごみを漁っている若者グループには要注意なのだという。なぜならば、不燃ごみ漁りの「親方」がいて若者らはその支配下にあり、麻薬漬けだというのです。つまり恐らくは反社会的勢力が不燃ごみ漁りに関わっている可能性がある訳です。そして彼自身も過去に「親方」の配下にいた時代があったらしく、麻薬中毒により何回も精神病院へ入院歴があるとのことでした。これには驚きました。ごみ漁りというと主に生活苦の方々による単独の自己完結型が多いと思い込んでいたため、意外でしたし非常に怖い世界なのだと感じました。

〈ごみ漁りで月収40万だったバブル期〉

彼と初めて会ったとき、自転車でひたすら集積所を回る、心を閉ざした表情の堅い怖い方という印象だったのですが、なぜか次第に私に心を開いてくださり、タバコをふかしながら上記のような不燃ごみ漁りの裏側を教えてくださいました。彼は公営住宅住まいで家はある方でホームレスではなく、身なりはちゃんとしていました。彼の絶頂期はバブル期で、ごみ漁り一本だけで月収40万だったそうです。エリアごとにごみの質が異なり、あるエリアは掘り出し物が多いとか、年末のごみ漁りは書き入れ時である等々おしゃべりは続きました。ごみ漁りも奥深い世界ですね。

By 野澤高士

1981年、名古屋市生まれ。

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